大徳寺
だいとくじ
大徳寺は、臨済宗大徳寺派の大本山で、茶道との深いつながりから「大徳寺の茶面」と称されています。特に一休さんとして親しまれる一休宗純ゆかりの寺院として知られています。
伽藍配置は勅使門、三門、仏殿、法堂が南北に一直線に並び、三門東に浴室、仏殿東に経堂、法堂東に鐘楼が設置されています。また、法堂の北には方丈、庫裏、侍真寮が寝堂を挟んで東西に配置されています。
室町時代中期からは、一休宗純の真珠派や陽峰宗韶の竜泉派、東渓宗牧の龍源派(南派)、古岳宗亘の大仙派(北派)の四派が形成されました。
1582年(天正10年)、豊臣秀吉が織田信長の菩提寺として総見院を建立し、以降、戦国大名が相次いで塔頭を建立しました。明治維新までは塔頭が56ありましたが、現在は22か所が残っています。
正式名称 | 龍寶山 大本山大徳寺 |
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山号 | 龍寶山(りゅうほうざん) |
宗派 | 臨済宗大徳寺派大本山 |
本尊 | 釈迦如来 |
所在地 | 〒603-8231 京都府京都市北区紫野大徳寺町53 |
問い合わせ | 075-491-0019 |
拝観時期 | 本坊は通常非公開 |
見学時間の目安 | 60分 |
参拝順路 | 特に決められていません |
アクセス | 京都市バス「大徳寺前」下車(1、12、102、204、205、206、北8、M1系統) |
駐車場 | 東門の近くに一般有料駐車場がいくつか有り |
ご利益 | - |
地図 | |
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大徳寺の見どころ
大徳寺の見どころは、まず金毛閣とも呼ばれる三門です。大徳寺の入口に位置し、千利休によって上層が完成されたこの建物は、特に朱色が印象的です。また、法堂の天井に描かれた狩野探幽の「雲龍図」は圧巻です。さらに、大徳寺には数多くの塔頭があり、それぞれに茶室や庭園が設けられており、どれも素晴らしいものです。通常、塔頭は非公開ですが、年に数回特別公開されることがありますので、その機会に訪れることをおすすめします。
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総門
そうもん
勅使門
ちょくしもん
勅使門は三門の前に位置し、1640年(寛永17年)に宮中から下賜されたものです。
三門(金毛閣)
さんもん(きんもうかく)
三門は、1526年(大永6年)に下層が建てられ、その後、1589年(天正17年)に千利休が上層を完成させました。両翼には山廊が設けられており、上層には「金毛閣」の扁額が掲げられています。上層内部には千利休像が安置されています。
仏殿
ぶつでん
三門の北側に位置し、1479年(文明11年)に堺の豪商・尾和宗臨が一休宗純の勧めで建立しました。1665年(寛文5年)に再建されており、内部には本尊の釈迦如来像が安置されています。天井画には、狩野元信の筆による作品が描かれています。
法堂
はっとう
仏殿の北に建ち、1636年(寛永13年)に開山・大燈国師三百年遠忌の際に再建されました。法堂の天井には狩野探幽による「雲龍図」が描かれており、伽藍の中でも最も大きな建物となっています。
方丈
ほうじょう
方丈は1636年(寛永13年)に京都の豪商・後藤益勝(ごとう ますかつ)の寄進によって建てられ、国宝に指定されています。方丈の前には方丈庭園が広がり、東庭と南庭が特徴的です。東庭は小堀遠州による「七五三石組み」と呼ばれる五つの石群が配置されている平庭、南庭は天祐紹杲(てんゆうじょうこう)作の枯山水庭園です。南庭には、東南に賀茂川の黒大石と紀州の青大石が並び、渓流を表現しています。写真は「京の冬の旅」の看板です。
浴室
よくしつ
1622年(元和8年)に灰屋紹由(はいや じょうゆう)の寄進により建立されました。内部には、蒸し風呂、釜場、焚き口、脱衣所といった設備が整っています。
平康頼之塔
たいらのやすよりのとう
平康頼を供養するための塔です。平康頼は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての歌人であり、鹿ケ谷の陰謀に加担した中心人物の一人とされています。流罪となった康頼は、配流先で郷愁を詠んだ歌を1000本の卒塔婆に記し、それを海へ流しました。そのうちの一本が平清盛のもとに漂着し、清盛が心を動かされて康頼の罪を許し、彼は京へ戻ることができたという逸話が伝えられています。
千躰地蔵塚
せんたいじぞうづか
大徳寺茶所
だいとくじちゃどころ
大黒天が祀られています。以前は中にお茶の入ったポットが置かれており、訪れる人が自由にお茶をいただけましたが、現在ではそのサービスは行われていません。
梶井門
かじいもん
大原にある三千院が大徳寺の近くに位置していた頃、「梶井御所」と呼ばれていた時代の門です。その後、梶井御所は大原に移転しましたが、この門だけが大徳寺に残されています。
興臨院
こうりんいん
興臨院は、大徳寺の本坊の南方に位置する塔頭寺院で、能登の戦国大名・畠山義総(はたけやま よしふさ)によって創建されました。寺名は、義総の法名「興臨院殿伝翁徳胤大居士」に由来しています。
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大徳寺の歴史年表
1315年 (正和4年) | 宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう/大燈国師)が赤松則村の帰依を受け、雲林院の旧地に小院を建て、大徳と号する。 |
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1319年 (元応元年) | 1319年(元応元年)に創建したともいわれる。 |
1324年 (正中元年) | 伽藍建立を始める。 |
1325年 (正中2年) | 2月、花園上皇は院宣で祈願所とした。 |
| 7月、後醍醐天皇が朝廷の祈願道場とした。 |
| 玄慧法印(げんえほういん)が宗峰の下に入り、居宅をもって方丈を建立する。 |
1326年 (嘉暦元年) | 法堂が完成。塔頭伽藍のほぼ全てが完成する。 |
1334年 (建武元年) | 後醍醐天皇が「本朝無双の禅苑」と定め、京都五山の上に列した。 |
1386年 (至徳3年) | 五山の下の寺格十刹の9位になる。 |
1431年 (永享3年) | 自ら五山を脱する。 |
1453年 (享徳2年) | 大火に遭う。 |
1474年 (文明6年) | 一休宗純が47代住持となり、再興する。 |
1479年 (文明11年) | 堺の豪商である尾和宗臨が一休宗純の請を受けて仏殿を造進した。 |
1526年 (大永6年) | 三門が完成する。 |
1582年 (天正10年) | 豊臣秀吉が織田信長の葬儀を行う。 |
1636年 (寛永13年) | 開山大燈国師三百年遠忌に際して法堂が再建される。 |
1640年 (寛永17年) | 宮中から現在の勅使門を下賜される。 |
1665年 (寛文5年) | 那波常有(なわ じょうゆう)が仏殿を再建する。 |
1868年 (明治元年) | 廃仏毀釈により塔頭の多くが破却。 |
1973年 (昭和48年) | 立花大亀(たちばな だいき)により、如意庵が再興される。 |
大徳寺の年間行事
1月1日:祝聖(しゅくしん) - 仏殿・雲門庵
1月1日~3日:仏殿祈祷大般若会 - 仏殿
1月8日:今宮鎮守大般若祈祷 - 仏殿
1月10日:臨済忌半斎(りんざいきはんさい) - 方丈
1月15日:善月祈祷大般若会 - 仏殿
1月17日:百丈忌半斎(ひゃくじょうきはんさい) - 方丈
1月18日:懺法会(せんぽうえ) - 方丈
2月15日:涅槃会 - 仏殿
4月8日:降誕会(花祭り) - 仏殿
4月16日:菩提講(ぼだいこう) - 方丈
5月15日:善月祈祷大般若会 - 仏殿
6月18日:懺法会(せんぽうえ) - 方丈
7月15日:山門施餓鬼会 - 方丈
9月15日:善月祈祷大般若会 - 仏殿
9月16日:後醍醐天皇忌半斎(ごだいごてんのうきはんさい) - 方丈
10月5日:達磨忌半斎(だるまきはんさい) - 方丈
10月第2日曜日:曝涼(ばくりょう) - 方丈
11月5日:開山忌評定 - 方丈
11月21日:開山忌宿忌 - 法堂・方丈
11月22日:開山毎歳忌半斎 - 法堂・方丈
12月8日:成道会(じょうどうえ) - 仏殿
12月8日:開山降誕会(かいざんごうたんえ) - 雲門庵
12月15日:歳末祈祷大般若会(さいまつきとうだいはんにゃえ) - 仏殿
12月21日:冬夜隔宿諷経 - 仏殿・方丈
12月31日:除夜諷経 - 仏殿・雲門庵
参考
京都大辞典、京都・山城 寺院神社大辞典、京都大知典、古寺巡礼 京都17 大徳寺、週刊 古寺をゆく22 大徳寺、京都の社寺