京都の観光旅行ガイド
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総見院

そうけんいん

総見院は、大徳寺の本坊の西方に位置する塔頭寺院で、豊臣秀吉が織田信長の菩提を弔うために建立しました。寺院名は、信長の法名に由来しています。

境内には、信長だけでなく、信忠や信雄といった織田家の人々の墓や公家の近衛家の墓も祀られています。

明治初期には廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の影響を受け、堂宇や寺宝の多くが失われましたが、大正年間に再興されました。

正式名称総見院
山号-
宗派臨済宗大徳寺派
本尊織田信長坐像
所在地〒603-8231 京都府京都市北区紫野大徳寺町59 大徳寺境内
問い合わせ075-492-2630
拝観時期通常非公開
見学時間の目安30分
参拝順路特に決められていません
アクセス京都市バス「大徳寺前」下車(1、12、102、204、205、206、北8、M1系統)
駐車場東門の近く
駐車場料金
ご利益-
地図

総見院の見どころ

総見院の見どころは、なんといっても織田信長坐像です。作者の康清は信長に会ったことがあるとされ、その信長坐像は生前の信長に非常に似ているといわれています。衣冠帯刀の姿で眼光鋭く、今にも動き出しそうな迫力があります。特別公開の際には、ぜひ実物を見に訪れてみてください。

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正門
せいもん

正門は、1583年(天正11年)の創建当時のもので、当時の姿を残しています。土塀は「親子塀」と呼ばれ、内部に空洞がある二重構造が特徴です。

本堂
ほんどう

織田信長の葬儀が執り行われた場所です。内部には、中央に開山である古渓宗陳の像が、左側には織田信長坐像が安置されています。

織田信長坐像
おだのぶながざぞう

織田信長坐像は、信長の一周忌法要に合わせて1583年(天正11年)に作られた木造の像で、高さ約115cm、衣冠帯刀姿で表現されています。仏師・康清(こうせい)による作品で、重要文化財に指定されています。この像は香木で2体作られ、そのうちの1体は信長の葬儀の際に火葬され、香木の香りが京都中に漂ったと伝えられています。写真は「秋の特別公開」の看板です。

茶筅塚
ちゃせんづか

茶筅塚は、茶をたてる際に使う茶筅の供養塔です。花立ては茶筅の形をしており、線香立ては抹茶茶碗の形をしているのが特徴です。

茶室「龐庵」
ちゃしつ「ほうあん」

而妙斎(じみょうさい)の揮毫による扁額が掛けられています。

茶室「寿安席」
ちゃしつ「じゅあんせき」

1924年(大正13年)に山口玄洞(やまぐち げんどう)によって建立されました。

茶室「香雲軒」
ちゃしつ「こううんけん」

表千家の即中斎(そくちゅうさい)の好みによるものです。香雲軒の扁額は、即中斎が揮毫したものです。

掘り抜き井戸
ほりぬきいど

井筒は、加藤清正(かとう きよまさ)が朝鮮出兵の際に船の重りとして持ち帰ったと伝えられる朝鮮石で作られています。現在も枯れることなく水が湧き出ています。

侘助椿
わびすけつばき

豊臣秀吉が千利休から譲り受けて植えたと伝えられており、樹齢400年以上を誇る日本最古の胡蝶侘助椿とされています。

織田信長ほか一族の墓
おだのぶながほかいちぼくのはか

織田信長の墓をはじめ、一族の七基の五輪石や墓が並んでいます。左から秀雄、信雄、信長、信忠、秀勝、信高、信好の順に配置されており、また、帰蝶(濃姫)、徳子、お鍋の方の墓もあります。

鐘楼
しょうろう

創建当時のもので、鐘は信長の家臣、堀秀政(ほり ひでまさ)の寄進によるものです。鐘の銘文は、古渓宗陳の作とされています。

総見院の歴史年表

1582年
(天正10年)
6月、織田信長が本能寺で明智光秀(あけち みつひで)に討たれる。(本能寺の変)
1582年
(天正10年)
10月、豊臣秀吉が信長の葬儀を大徳寺で営む。総見院の建立に着手。
1583年
(天正11年)
秀吉が信長の菩提を弔うため古渓宗陳(こけいそうちん/蒲庵古渓)を開祖として建立。
1585年
(天正13年)
3月、秀吉が総見院を中心に信長追悼茶会を開催。
1868年
(慶応4年)
廃仏毀釈の影響で堂宇や寺宝の多くが失われた。
1912~1926年
(大正年間)
復興される。
1924年
(大正13年)
山口玄洞(やまぐち げんどう)が茶室「寿安席」を建立。
1992年
(平成4年)
研究者によって、信長の正室である濃姫(のうひめ)の墓が存在することが報告された。

総見院ゆかりの人物

・織田信長(おだ のぶなが) [1534年-1582年]
織田信長は、天下統一を目指した戦国時代の革新者。桶狭間の戦いで今川義元を破り、徳川家康と同盟を結んで尾張を統一した。上洛後は足利義昭を奉じ、姉川の戦いに勝利して近畿を平定。1573年には義昭を追放して室町幕府を滅ぼした。戦術面では鉄砲隊を活用し、武田軍にも勝利を収めている。また、比叡山延暦寺を焼き討ちするなど宗教勢力を制圧し、「楽市・楽座」や関所の撤廃で商業の自由化も推進した。しかし、1582年、明智光秀の謀反により本能寺で最期を迎えた。

参考

総見院パンフレット、第45回「京の冬の旅」非公開文化財特別公開ガイドブック、古寺巡礼 京都17 大徳寺、京都の禅寺散歩、京都大辞典